大丈夫やばくない。って思っている時が一番ヤバい
もっと自分を大事にしろ
泣いた。人生で2番目くらいに泣いた。嗚咽が止まらなかった。
その言葉を思い出しては家でも会社でも通勤途中でも泣いていた。
査定面談の際、次の上司になる人から言われた言葉だ。
昇進もしなかった。入社以来月給は1円たりとも上がらなかった。
所属している部署的にも大きめのプロジェクトにいたし(2回も巻き込まれた)、
休日出勤もした。
同期で1,2を争うくらいには長時間働いていたのに。
そんなことは生まれてから親にも言われたことはない。
悔しさと情けなさと
自分より給料が高いやつへの嫉妬と謎の安堵感
が入り混じり涙が止まらなかった。
思い出しては平日だろうが休日だろうがあらゆる場所で泣いていた。
大きいプロジェクトにいた時期の上司がクラッシャータイプだった。
毎週定例ミーティングはお葬式のようだった。
もともと根アカではない私はコミュ障のレッテルを貼られてしまった。
「マスクをしているとコミュ障にみえる」
(私は重度のアレルギー体質で花粉の時期は毎日マスクをしていた)
「お前を雇うより業務委託のほうがいい」
「お前の仕事はプロジェクトで一番やらされ仕事」
今思うとこれらの言葉はれっきとしたパワハラだと思うのだが
当時の自分は社会人なんぞそんなものなのかと思って飲み込んでいた、自分の感情に蓋をしていた。
周りの大人は敵だ、敵、敵、どう攻略するか、くらいに思っていた。
冒頭の一言で積もり積もった負の感情が決壊し、涙とともに溢れ出た。
当時の日報を見ると「会社に行きたくない」とか書いていたので精神的にはそれなりに追い込まれていたのだと思う。
でも当時はそこまでダメージを負っているという自覚がなかったのだ。
弱音を吐ける人も周りにはいなかった。
いなかったというよりは見つけようとしていなかった。
クラッシャー上司が上司ではなくなり、組織が変わったことは本当に運が良かった。
私にとっては転機であった。
新しい上司には根暗である私の性格も受け入れてくれて
ビジネス上の心構えや向き合い方、メンタルケアを叩き込まれた。
あいかわらず大きいPJに関わっていたし、給料も変わらなかったのだが、
仕事が本当に少しずつだが、楽しくなってきたり、
自分のアウトプットを周囲が認めてくれたりして
少しずつ、世界が変わって見え始めた。
弱音を吐ける同僚も見つけることができた。
ジェーン・スー氏が居場所を見つけるには自分で飛び込むしかない、と「生活は踊る」内で話していたことが強烈に記憶に残っている。
やっている仕事はそんなに変わらないのだが、自分なりのモチベーションを見出し
今はどうにかこうにか働いていけている。
あの時の自分はかなり病んでいた、かつ自覚症状がなかったので
本当にやばいときは自分では気づくことができぬのだなと思えたことは
自分にとっては貴重な学びだった。
自分の心の機微にはちょっとだけ自分を甘やかして
素直になろうと、つらいときはつらいと言おうと。
そう思えるようになった。